人間関係の仕組みと家族

今回のLECOで教わった「人間関係の仕組みと家族」についてご紹介したいと思います。
2010神戸大学法学部大問番号一番より


現代はインターネットの普及によりSNSの利用者が増え、実際に会ったことがない人であっても共通の趣味を持っているからという理由で人間関係を広げることは珍しくない。筆者は人間関係には2つの要素があると述べており、1つは趣味の人間関係であり、もう1つは持続させることを目的とした人間関係である。


まず、1つ目の趣味の人間関係とは、相手と自分のよりどころが理由となって続く関係のことである。逆に、よりどころさえなければ、いつでも解消できる関係である。


例えば、ある著名人の本を読み、考え方が面白いと感じたので、ツイッターでフォローしたとする。しかし、その著名人のツイート(ツイッターないでの発言や発信)の内容がつまらないから、フォローを外すことになった。これは、著名人の考え方が面白いというのが読者のよりどころであったが、ツイッターを通してつまらないと感じたから(よりどころが無くなったから)関係を断ったということになる。


もう1つの持続させることを目的とした関係とは、関係を運命的なものだとみなすことで成り立つ関係のことである。例えば、性格が良いから付き合ったカップルがいたとする。しかし、デート中に悪口を聞かされたから性格が思っていた以上に悪い、だから別れようと簡単にはならない。実際、長く続くカップルほどお互いの短所がわかっていても、別れることはない。それは運命の出会いであると考え、簡単には別れないとも言えるだろう。とはいいつつも、実際は解消しやすい関係である側面もある。


では、家族とはどのような関係で成り立つのだろうか。


それは、趣味による関係と持続を目的とした関係の両方が成り立つ関係である。夫婦同士の魅力つまり、よりどころを持ちつつ、ずっと続くような関係を望む。この家族の関係が続くからこそ人間のサイクルは持続し人間社会が続くのである。


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相互学習

今回のLECOで教わった「相互学習」についてご紹介したいと思います。
2009関西学院大大問番号一番より

医療の発展のお陰で私たちは寿命を伸ばすことも、治らない病気を治すことを可能になった。同時に人の生死を操ることも可能になった。

医療つまり科学は私たちの生活に密接な関係であること医療の例を見てもは確かである。だから人々は科学と関わる分、科学と人の関わり方や人の在り方を考えるようになった。それが今日における倫理という学問である。

例えば、臓器移植を実施するためには心肺機能が停止していない状態のもと死を法的に認めなくてはいけない(脳死)。仮に科学論から考えれば、臓器移植に必要な臓器は売買してよいものであるなどという考え方もできるであろう。しかし、そんな科学を非人道的とみなし制御する学問が倫理である。

よって社会への利用を目的とした科学は人にとってどうあるべきかを考慮しつつ発展させなくてはならない。つまり、科学と倫理という他の学問から追及しなくてはいけない存在となった。倫理の制御が無ければ科学は発展するが、人という立場が確かなものではなくなる。しかし、倫理によって科学を制御することで科学の発展は遅れるかもしれないが、人間との最良の関わりが見つかるではずである。


私はこの文章を読んで、改めて高度な学問ほど他の分野からの視点が大事だと思いました。理系の話題になって大変恐縮ですが、数学会では300年以上解けなくて話題になっていた「フェールマーの最終的定理」という証明問題がありました。(ここでは詳しく話す余裕はないので割愛させていただきます。)結果、この問題は楕円曲線を使うことで証明できるのですが、実はその解き方というのは物理学から答えを導くというものでした。

ここでの注目する点は数学なのに物理学からの視点で答えを導いたということです。

このように他の視点から学問を捉えることでより問題が明解になったりするということに改めて気がつきました。つまり単体の学問ではなく、相互的に(関連付けて)学習することが学問において大事なことなのだと思いました。


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顕在する制度と潜在する制度

今回のLECOで教わった「顕在する制度と潜在する制度」についてご紹介したいと思います。
2012上智大学文学部大問番号一番より



人は生活する上でなんでもして良いものだとすると、日々私たちの世界では犯罪が起きてしまう。仮に常識というものがあったとしてもほんの一部の行動しか抑止できない。もしかしたら意味さえ持たないのかもしれない。

そんな人の行動を制約することものとして筆者は2つのものがあると考えている。制度と文化である。

制度は人の行動を限定することで社会を秩序立ったものにさせることを目的としたものであり、どんな人であっても強制されるものである。

例えば、道路交通法は歩行者の安全を確保するために主に運転手のスピードを制限したりするものである。女性だから、海外の人だから見逃そう等といったことは絶対にあり得ない。

一方、文化をとは人の行動を暗黙裡に制約することで、国や特定の地域の独自性を確保するものであり、一部の人の行動を半強制的に制約するものである。

例えば、イスラム教には豚肉を食べてはいけないという風習がある。しかし、このことはイスラム教徒に対してのみ半強制的に行われるものであり、実際豚肉を食べたからと言って決して罰せられたりはしないものである。

このように制度と文化は同時に存在するものであるが、働きかける内容は全く異なったものであり、私たちはこの2つの制約によって行動しているということである。


私はこの文章を読んで、見えないものを感知する濃緑の大切さを知りました。法律とは実際六法全書に書いてあり、何をしたら不味いかわかるものです。しかし、常識やタブーは何かに書いてあるということはあまりなく、自らその場その場の空気を感じとり、何をしてはいけないのか学ぶものです。

実際、常識は守らなくても罰せられるということが無いため、自分は非常識であるわかりにくいのも事実です。だから周りの空気やその場の状況に敏感になることが重要であると思いました。



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遊びから得られるもの

今回のLECOで教わった「遊びから得られるもの」について紹介したいと思います。

2007関西学院大学経済学部


近代は物事にたいしての合理性を求める時代である。一方、遊びとは自分が考える空想のもと成り立つものであり、合理性とはかけ離れた存在である。


例えば、おままごとは演じるのが人であれ、場合によってはペットの役になることもある。傍から見れば人が動物になることはないと思うものである。しかし、演じてる時にはそのような合理的な考えを踏まえて物事をとらえたりしない。つまり、おままごとを通じて非日常的な世界を実際のように体験してることになる。


このことから、遊ぶことには想像力が必要となると同時に遊ぶことで想像力を養うことが可能である。よって想像力を伸ばすことができる遊びとは人を問わず重要なのである。

歴史の在り方

今回のLECOで教わった「歴史の在り方」についてご紹介したいと思います。
2008年東大文科より


歴史とは一般的に絶対的評価基準があるとされている。しかし、実際は様々な観点から歴史的事実を捉えることで、様々な解釈が生じる。


例えば、織田信長桶狭間の戦い今川義元を破った。織田信長側の視点から考えれば、劣勢でありながらも戦に勝てた英雄と捉えられる。一方で、今川義元側からの視点だと我が大名の首が討たれて敵を打ちたい、などと思うだろう。とてもじゃないが、織田信長を英雄とは普通は思わないだろう。


このように、1つの出来事でも立場によっては様々な解釈が生じるのである。つまり記録されてる歴史はあくまでも1つの視点から成り立つものである。もちろん、歴史を記録する人は自分への利益がないことは積極的には記録しないだろう。このことから歴史=記録者の利益に基づき取捨選択されたものと捉えることができる。


また、歴史とは記録者の記憶によって構築された1つの視点と言うこともできる。記憶とは自分が経験した出来事全てである。だからこそ、歴史は記録する人に取捨選択された記憶とも言える。


その一環として自分が経験したことを記録として残すことは可能だが、自分が死ぬまでは残した(記した)歴史に対する責任というものがつきまとうものである。




私はこの文章を読んで世界史の視点の良さがわかりました。世界史は各国に視点を当てながらも相互的に出来事を学んでいくと思います。例えば、日露戦争は日本からの視点とロシアからの視点で学びます。このように世界史は相互的な視点を提供してくれるのです。だから私は、様々な境遇や視点から学ぶことで1つの出来事で様々な捉え方を学べる世界史はとても役立つと思いました。



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西洋の普遍性の起源

今回のLECOで教わった「西洋の普遍性の起源」について紹介したいと思います。
2014年同志社大学全学部大問番号1より


絵画は言語より理論性が劣る。しかし、言葉よりも細かい描写を一瞬で表せるという点では絵画は言葉よりも優れたコミュニケーション手段の1つである。絵画の根本には曖昧さがある。そのことが今日の視覚中心主義の思想、文化、社会を支えてきたと言っても過言ではない。



例えば、西洋で主とされているキリスト教ユダヤ教イスラーム教とは異なり神の姿(イエス)を表象する。本来目に見えない神を目に見える形で置き換えるという行為の根底には曖昧さがあり成り立っていることがわかる。



また、視覚中心主義の西洋が絵画の技術を発達させた理由の1つには聖書、神話を絵画に置き換える(視覚情報化する)ことで的確にかつ劇的に伝達しようとした試みがもととなっている。そして今日イメージしやすい西洋の思想、教えであるキリスト教が広く広まったということである。



私はこの文章を読んで視覚情報の与える強いイメージを理解しました。現在は証言より写真のほうが信憑性があるというのは事実だと思います。週刊誌のスキャンダルにしても記者が伝えた内容だけではデマなのではないかと批判されます。しかし、写真つきだと取り上げられてる記事に批判する人はいますが、内容の審議を疑う人は少ないです。

よって、視覚情報は何よりも信憑性が高い媒体であることがわかります。そして、今のメディア産業は視覚情報を巧みに操り情報操作することも容易であると思うので、日々勉強することで情報に惑わされないことが重要だと思いました。


今回も見ていただきありがとうございました。

学問への関わり方

今回のLECOで学んだ「学問への関わり方」について紹介したいと思います。
2015関西学院大全学部大問番号1より


ある事柄を用いて行動をする際に、その事柄の当事者でないといけないとされている。例えば、先住民ではないがあたかも先住民のように振る舞うことをワナビーと呼ぶ。ワナビーは先住民のことを理解せずにファッションを取り入れることで、先住民のことを理解したように見せかける。


もちろん先住民からすれば、表面的な理解しか行わないワナビーのことを、批判している。実際、ファッションを取り入れられるだけならまだしも、そのこととは別に先住民の経済的価値を下げられているという現実がある。


例えば、インディアン・ジュエリー(先住民の宝飾品)が挙げられる。かつてインディアン・ジュエリーは現地で手作りで作られるもので、希少性があり海外からは高く評価されていた。しかし、最近は市場に出回る先住民の芸術作品よりも外国産のものが多く出回るようになった。もちろん大量生産されているからこそ現地で作られるもののおよそ10~20分の1の価格で買えてしまうというのが現状だ。


よって今は安価でどこでもインディアン・ジュエリーが買えてしまい、もはや希少と呼べる存在でなくなった状態を、先住民は文化の経済価値が下げられたとして非難している。だから、先住民は表面的な理解しか行わない人に対しては消極的な見方を持つ。


しかし、文化を深く理解することで先住民でなくても文化を語ることは可能である。例えば、トニー・ヒラーマンはナバホ族を話題にしてサスペンスを書いたノンネイティブの作家だ。彼はワナビーとは違い部族の特徴と歴史を踏まえた上でサスペンスを書き、ナバホ族の人たちから賞賛され、現地のお土産としてそのサスペンスが置かれるという事態までに至った。


このようにある事柄をきちんと理解することで、当事者でなくともその事柄について言及することができる。そのためには、きちんと理解ができるような勉強が必要である。



私はこの文章を読んで理解する大切さに気がつきました。まず、身近な例でいうと一番英語が当てはまると思いました。私たちの多くは日本語を母語としているが、英語を勉強しなくてはいけない。当然留学したことがない人は英語に対しての当事者とは少し離れた存在であるが、だからといって日本で英語をマスターすることが不可能と言えばそうでもないと思います。きちんと勉強し理解をすることで日本国内でも英語をマスターすることができるからです。

よって、理解することが重要であり、その理解のためには勉強することが必要であると思いました。



今回も見ていただきありがとうございました。