なぜ学ぶのか?

今回は少し内容を内容を変更して、自分なりの考え方を書かせていただきます。


まず、自分のやりたいことや可能性を広げるために勉強をする。そのプロセスの中に大学受験が含まれている。

なぜ学ぶのか?
 自分にとって学びとは既存の情報を得て、自分のやりたいことをすることだと思います。知識もなくやりたいことをやってしまうと、他人に必要以上の迷惑をかけてしまう恐れがある。以前ウェブログで書きましたが、自由とは他人の欲望の前提のもと、自分のしたいことをするということだと思います。

 だからこそ、情報や知識を獲得してからやりたいことをしないと、他人の欲望を害してしまう気がする。

 そして、学ぶという行為の中にある1つの通過点が大学受験。大学には学部学科があり、特に学びたいことに特化できると思う。この点がある意味自分にとっての高校までの学びとの違いだと思う。

 高校における学びとは、学びたいことを尊重されてない気がする。確かに少しは尊重はしていると感じられるかもしれないが、それはあくまで文理と選択科目だけ。また、自分にとって疑問なのが、義務教育ではない高校がなぜそこまで均質化した学問を生徒に行うのか?ということだ。

 自分は高校での学び、学問とは本当に学びたいことを見つけるための前提知識を提供しているものだと思う。

 例えば、宇宙やロケットに興味があるから大学に行ったらそれを専攻したいと思う。でも、文学部に行くとそれはおそらく学べないだろう。なぜなら、理系分野の前提知識がないからだ。その理系知識は高校で得とく必要があり、現在その知識が欠落してるのだ。では逆にどうすればいいのか?自分の中には答えが2つある。まず1つは、今勉強していて楽しいと思うものを続けて勉強する。もう1つは、学びたいことに対して逆算をして、必要とされる知識を得ることだ。

 自分にとっては後者の選択肢の方が好みである。なぜなら、「学びたいことがあるから勉強している」という目的意識がはっきりあるからだ。一方、前者には目的がなく、とりあえずという状態が続いてる気がする。結局学びたいことが見つからなければそれでやり直すか、ドロップアウトしなくてはならない。

 例えば、マラソンはゴールが見えて走るのと、どこがゴールかわからずひたすら走るのはどちらが楽か?ということだ。

 このことを応用すれば、働きたい仕事があり、その職場には○○大学に行くと就職しやすいとか、○○学を身につけていると就職しやすいということになると思います。だから○○大学に行こうとか○○学を身に付けようとなるわけです。

 とにかく言えることは、主体性を持ちながら勉強しないとやりたいことが見つからなくなるということです。だから、学びとはやりたいことに対して逆算され、かつ主体性を伴うもの。やりたいことをするために学ぶということだと思います。

未来への対処の仕方

今回のLECOで学んだ「未来への対処」について紹介したいと思います。

2016年関西学院大学全学部」大問番号1より

 

 未来への対処の仕方として、主に2通りある。1つ目は、過去の出来事が未来にも同様に起こると考えること。例えば、占いは過去の出来事を集約化し、その中から未来の出来事を予測するものである。勿論、未来のに起こるだろうとされる出来事は全て過去の出来事から引用したものである。

 

 もう1つの対処の仕方として過去の経験則から未来でも似たような出来事が起きるだろうと考え、あらかじめ対処することだ。1つ目とは異なり、同じような(類似の)出来事は未来にも起こりうるが同様の出来事は起こらないと考えるのである。

 

 人は常に色々な人と関わりを持ち生活しているため何が起きるのかわからない、つまり偶然によって成り立つ世界に生きていると言える。だからこそ、過去の出来事と同様の出来事が未来にも起こるだろうという考えは安直である。

 

 そのことを踏まえ、人間は過去の経験から未来にも同じことが起こるとは考えずに、似たような事が起こりうると考え、常に前もって対処することが必要である。

 

 

 私はこの文章を読んでこれからの未来がどうなるのかという予想を立てるににとても良い教訓を得たと思いました。まず1つ、近年はロボットの開発が著しく、近い将来ロボットが人間にとってかわると言われています。しかし、今はロボットの設置費用より人件費の方が安い為導入されていないだけです。人間が作り出したものに人間が疎外されるということはとても皮肉なことですが、この似た話を今日ご教示頂きました。

 

 話は産業革命に遡ります。紡績機が発明されてからたくさんの失業者が出ました。紡績機の発明により労働者を多く必要としなくなったからです。このことは先ほどお伝えしたロボットの話と似ていると思います。

 

 そう、つまり過去の教訓から今後どうすればいいのかということは見つかると思います。だからこそ過去の事、歴史にきちんと目を向けて勉強したいしすべきと思いました。

 

 

今回も見ていただきありがとうございました。

 

 

 

日本人の良さとは

今回のLECOで学んだ「日本人の良さ」について紹介したいと思います。
2013年明治大学商学部大問番号1番より

 欧米では主義主張の一貫性を求める側面が強い。一方、日本では曖昧さが頻繁に付きまとい、一貫性とはかけ離れている存在である。

 国際社会では曖昧さが良く評価されていない。例えば、絶対的価値判断が存在しない、主義主張がない、決断力に欠けるなどと批判されがちである。


 しかし筆者は、日本人は曖昧さがあるからこそ本来(一貫性を突き通す)なら対立する場面でも対立しないですんでいると述べている。つまり、自分の視点からだけでなく相手の立場も考えることで相互の理解が可能であるということである。例えば、利害対立が生じる対立の場合、相手のことも思いやることで互いに納得した答えを導くことができる。

 このような曖昧さがあるがゆえに相互理解を可能にしている日本人の良さを、現代のようなグローバル化が進んだ外交で用いることで、国同士の対立を減らせるのではないかと筆者は考えている。また、日本のあり方を世界に伝えることが、日本が世界に貢献できることであるとも筆者は考えている。そうすることで、対立が少ない国同士の関係を築けるのである。



 私はこの文章を読んで多様性の重要性に改めて気づきました。 よく、政治の討論番組では自分の意見を押し通そうとするがあまり過激な言動が目立ちます。そして、考え方が違うだけなのに批判的になってなんでも否定したがる学者が多くいるのも事実だと思います。

 しかし、対立をしていても一向に新たな解決策は生まれないわけですから、共感できる部分にはきちんと合意をする必要があると思います。また、意見が食い違う時には自分の意見を伝えた上で相手の意見も受け入れ、より良い考え方に達することで必ずよい解決策や案が生まれると思います。

 そのためには、必要条件としてやはり考え方の多様性、臨機応変に考え方を変えられる力が必要なのではないかと思いました。


今回も見ていただきありがとうございました。

 

教育とは

今回のLECOで学んだ「教育とは」についてご紹介したいと思います。

2015同志社全学部大問番号1より

 一般的には自由とは生きたいように生きるといった欲望であると捉えられがちである。筆者は多かれ少なかれ、人には欲望があると指摘している。

 自ら生きたいように生きるための方法として、相互に争いをすることで自分の自由を勝ち取り、欲望を満たしている。

 例えば、全てが欲望のためという訳ではないが、戦争などが挙げられる。代表的なのがアメリカの公民権運動、アラブの春などである。

 しかし、本当の自由とは、自分の自由と同様に他者の自由も存在していることを認めることであると筆者は考えている。また、この自由の考え方(相互承認の原理)はドイツの哲学者ヘーゲルによって結論付けられたものである。

 自らの欲望を求め戦い続けるだけでは永遠に戦わなければならず、たとえ権力を得たとしても永続化させるのは不可能である。このことから、他者にも欲望があるということを認めつつ、自分の欲望も認めてもらう自由(相互承認の自由)が望ましいと筆者は考えている。

 仮に他者の自由を認めないと争いに発展し、自らの自由を失うこともある。だからそこ他者の自由も承認することが必要である。

 以上のことを踏まえて、公教育とはなにを目指し作られたのか?

 それは自由の相互承認の原理に基づき、自分のしたいことへの知識を学ぶということである。つまり、他者の自由を侵害せず、認め、自らの自由も認めてもらいつつ、したいことを見つけ知識をつけるということである。




 私はこの文章を読んで、教育の本来の目的について理解しました。

 テクスト中にはしっかりと明示してはありませんでしたが、自分のしたいことのために学ぶには自発的に知識を得に行く姿勢が大事だと思います。自発的に学ぶことで知りたいこと、学びたいことを取捨選択します。

 僕は学生だからこそ、今の日本の教育の形態について知る機会が多いと思います。その中の欠点として、教師が授業をし生徒が知識を得るという、本来の教育とは逆のことが行われているということがあげられると思います。

 学びたくないことも学ばなくてはいけない、もっと学びたいことがあるのにという事実を受けとめてこれからの教育へ繋げていってほしいと思いました。


今回の見ていただきありがとうございます。

芸術から考える理性と感性

今回のLECOで学んだ「芸術から考える理性と感性」について紹介したいと思います。

 

2012年明治大学商学部大問番号1より

 

 日本の芸術作品は神話や道徳の理性的な内容をもとにしてつくられていた。しかし、明治時代になり西洋の考えが入ってきたことで、新たに感性という視点をもって芸術作品をたしなむようになった。 つまり、新たな芸術への捉え方として、感情の表現を見出すものになった。

 

 例えば、花を愛でるということは神話の中にも出てくるものだが、感性という視点を持つことで、花を愛でる=美であるという考えが生じる。

 

 そもそも、明治以前は理性、感性という概念は存在しておらず、芸術の捉え方は1通りしかなかったが、理性、感性という概念入ってくることで芸術の捉え方が増え、以前の考え方が廃れてしまう。 例えば能には神様が例外なく出てくる。しかし、現在の人は能に神様が出てくると捉え、たしなむ人はほとんどいない。

 

 このように日本の芸術においては神話、道徳が存在するという考え方が無くなってしまった。

 

 

 私はこの文章を読んで概念の誕生による価値判断の変化について非常に興味を持ちました。そもそも、最近は神話という考えが科学の発展によってさらに廃れている気がしました。もしかしたら、新たな概念が生まれることで今の芸術への判断の仕方自体変わるかもしれません。

 

 だからこそ、考えの成立をたどることで以前共有されていた考えを知る事ができるのだと思いました。

 

 

今回も見ていただきありがとうございました。

コミュニケーション力とは?

今回のLECOで学んだ「コミュニケーション力とは?」について紹介したいと思います。

法政大学国際文化大問番号1より

 最近はコミュニケーションによって人の価値を判断している。

 例えば、就職試験には面接が存在しており、そのときの印象によって採用、不採用と判断している。

 しかし、コミュニケーションは技能の1つであり、訓練によって伸ばすことができる。例えば、数学が苦手なら先生の指導により成績が伸びるように。

 現在は第三次産業に就く人が7割いる。第三次産業は接客は避けられない。だからそこ、日本の学校の授業ではコミュニケーション授業が導入されていないという点においては改善が必要である。

 また、コミュニケーション能力をあげることで、つきたい職業に就くなどの行動視野が広がる。

 

 私はなぜコミュニケーションが重視されるようになったのかという点に着目しました。

 まず、機械を用いた大量生産が可能になったことで職人の数が減った。農家が減った。この2つは第一、二産業に含まれるので人々の仕事が第三次産業へシフトした。第三次産業は接客が主だからこそ、コミュニケーション能力が重要となるという考えが充満したと思いました。

 やはり、現代の風潮に合わせた教育を一刻も早く導入することが学校に求められると思います。


今回の見ていただきありがとうございます。